2015年1月15日木曜日

記憶に留めておきたい事

最後の言葉
 認知症発症後、度重なる入退院で認知症が進行し最後は会話らしい会話は出来ませんでした。最後の2日前、ベットで布団をかけてやった時のこと、「寒くねぇかい」と聞くと小さな声で「寒くねぇよ」と返事をしてくれました。これが言葉らしい最後の言葉です。最後の1年、調子のいい朝方はある程度会話も出来ましたが夕方になるにつれ会話も難しくなり、アタタタタ、アババババのような声を出すのみで受け答えは出来ませんでした。元気な頃はその声も力があり北斗の拳の様だと言ったりクレヨンしんちゃんに出て来るひまわりの様だと話してました。
病院では何故か、朝方ぼーとして夕方しっかりしてました。もっと話したかった。

母の口癖 「そうでもねぇだよ」「なんだかしらねぇが」「まんまくうよ」
  車椅子に乗るようになってからは、こたつ板をバンバン叩くのが癖でした。あまりに五月蝿いのでTVの音も聞こえず字幕を表示させ見ていました。
弱るにつれ叩く事も難しくなると今度は撫ぜたりして、汚れでも付いてるのかとこたつ板を拭いたものです。

介護
 介護生活1年と5ヶ月。週二回のデイサービス以外はすべて自分一人で介護した。食事、下の世話、着替え、辛いとか嫌だとか思ったことはない。便が出た時なんかはホットし自分までスッキリした気分になったりもした。口腔ケアで口の中を拭く時は歯のない口で噛まれたけどもぜんぜん痛くなかった。痰の吸引だけは母が苦しそうな顔をするので辛かったけど。まだまだ介護させて貰いたかった。

認知症
 認知症で暴言、暴力に怯えている人も多いと思うがそれも一時的な事。一年も経てば収まります。母も自分を殺すと刃物を持って来たり、家中の窓ガラスを割ってやると鍬を持って来たり、お前を呪い殺してやるとまで言われました。夜など殺されはしまいかと部屋に鍵を掛けて寝ることもありました。キズが付いた扉もあります。でも一時の事です。本人も感情のやり場に辛かったと思います。今想えば子供に返って行くのが認知症かも知れません。暴力期は反抗期、子供の様に自分の後も付いてきた。最後はアバババと赤ちゃんの様に。孫がいないのでお婆ちゃんと言えば母は怒ったけども本当に可愛いお婆ちゃんになって・・だから余計に辛い。

 認知症の診断はかかりつけ医でなく専門医に診てもらうのをお勧めします。我が家では専門医でなく田舎の内科医で診断されました。その後心療内科へ替えましたが後悔しています。あの精神安定剤・睡眠導入剤が誤嚥に繋がっていなかっただろうかなどもっと慎重に考えればよかった。認知症専門医、脳神経外科あたりが良いのかな。

忘れたくない。さみしいね。

2015年1月5日月曜日

自宅での看取り

看取り
 昨年末、退院して一週間で母が逝きました。年を越すまで生きていて欲しかった。毎日耳元で懐メロを聞かせると歌にはならなくとも一緒に歌っているようでした。自宅で看取りましたが本当にこれで良かったのか、苦しくなかったのか、本人でないので分かりません。見た目には苦しんでいなかったように見えましたが分かりません。亡くなる当日、いつになく酸素の値も血圧の値も良く、まさかこの日に亡くなるとは思いませんでした。退院後、何かあったらと思い母のベットの横で寝るようにしていました。その夜、普段と違う息遣いで目を覚まして母を見ると目を開き小刻みに呼吸をしていました。救急車?在宅医?訪問看護?と考えが巡りましたが、何時もとは違うと何か感じました。その晩は今年一番と思われる大雪、しかも真夜中。何れにしても間に合いそうもないなと覚悟を決め後悔しないように出来る事をしました。痰の吸引、人工呼吸。息を吹き込んだ時、分かりました。肺に水が溜まっているようなゴボゴボと言うような音、最後かも知れないと。普段は言えない、でも絶対伝えて置きたいことを母の耳元で言いました。「ありがとう」「産んでくれてありがとう」何度も何度も。言っておきたかった。異変に気がついて20~30分位で息を引き取りました。午前0時5分。今考えると救急車を呼ばなくて良かったと思います。母は静かに逝きました。

 自宅で看取ると言う事は看取る側としては辛いです。大切な人が息を引き取るのを、死んでいくのを、何も出来ないまま見ていなければいけない。今でも息を引き取った時間になると辛い。元気な時は感謝の気持ちなんて湧かなんだが、遺骨を前に「南無阿弥陀仏」でなく「ありがとう」と今は不思議と感謝の気持ちばかりが湧いてくる。最後の最後まで吸引したのが悔やまれる、嫌な思いをさせてごめんね。

在宅医
 いざという時に頼りになるのが在宅医だと思うのですが、我が家の在宅医は緊急入院の際も、看取りの際も来てはくれませんでした。緊急入院の際は「診療時間中なので往診は出来ません、救急車を呼んで下さい。」看取りの際は「朝が明けましたら伺います」と。父をなくした40年程前の医師は直ぐに駆けつけてくれましたが今の医師は違います。救急車、訪問看護師、の次が往診です。
その挙句の果てが「亡くなった後の往診は健康保険が利きませんので全額負担でお願いします。」と言われました。 開業医さえもサラリーマン化しています。

誤嚥
 医師は老衰と言うが老衰でなく、餓死です。誤嚥しますから食事はダメです。水もダメです。と言われ点滴生活が3ヶ月。体中のエネルギーを使い果たしての死です。こう言う亡くなり方もあるんだと初めて知りました。経鼻栄養、胃瘻、中心静脈点滴など延命の方法はあったかも知れません。もしかしたら今でも生きていてくれたかも知れません。どの方法をとってもリスクはあります。本人に苦痛も与えますと医師から言われ選択しなかった。医師も消極的で勧める事も無く、このまま亡くなったほうが苦痛もなく良いと言いました。日赤での高齢者の治療方針のようです。

 入院中は一日500キロカロリー程度の点滴、退院後は50キロカロリー程度の点滴。退院後はどう考えても命を維持できるカロリーじゃありません。死を待つ点滴です。現代はネットが発達しているので医療関係者でなくともどんな点滴か直ぐに調べられます。高カロリーな点滴ほど苦痛を与えると説明を受けました。最後は点滴できる血管も見つからなくなり皮下点滴となりました。考え方によっては医師達の暗黙の了解のもと安楽死させられたのかも知れません。

後悔
 大腿骨を折った時、日赤の医師に体調が悪いから手術できないと言われ手術せず、半月ほど食事も摂れず点滴でした。この時、無理をしても早期に手術をしてもらうべきでした。最近では多少体調が悪くとも体力の落ちないうちに手術をするのが良いとされているようです。この時に体力が落ち、認知症が進行してしまいました。満足なリハビリを日赤で行って貰う事が望めないんだったら手術後直ぐに退院させ、自宅でリハビリさせれば認知症も進まず、体力も落ちなかったと思う。

  一度目の誤嚥性肺炎の時も認知症がネックになって嚥下リハビリが上手く出来ず中途半端となってしまいました。誤嚥は物理的なリハビリもあるが薬物療法でも改善出来るようですが、医師による誤嚥のVF、VE(レントゲン、内視鏡による検査)もなく薬物療法もなかった。日赤ではST(言語聴覚士)のリハビリのみだったようです。検査自体誤嚥のリスクがあるので主治医が避けたのではないかと思います。投薬もまた誤嚥のリスクがあるので避けたのではと思っています。

 日赤は認知症患者の治療は積極的に行っているようには思えません。また認知症を理解しているとも思えません。朝の回診での数分診察、いや数十秒の診察でどの程度の認知症か診断するのは難しいと思います。調子の良い時、悪い時、すべて見てどの程度の認知症か分かると思うのですが、名前を呼んで返事なし=意識混濁。早計すぎやしませんか? 日頃から母は10時過ぎないとはっきり目が覚めない感じでした。そういった情報も家族から得ようと言う姿勢もなく投げやりな感じさえしました。

 他の病院へ行ける選択肢のない田舎では諦める他ないのが現状です。特に誤嚥は1分1秒を争います。病院を選んでいる時間はありません。今思えば応急処置で安定したら転院させればよかった。といっても行くあてなどないのですが。
 今回の日赤での主治医は内科部長で指導医らしいのですが、何かにつけて「老衰」です。と言うばかり。リスクから逃げる治療方針に回復させようという気概がまったく感じられず歯がゆい思いをしました。彼らはサラリーマン医師という言葉がお似合いかも知れません。彼らのような指導医に指導されている研修医の将来が心配です。田舎では信頼の置ける医師を見つけるのは不可能です。かと言って、病んでいる母をあっちの病院こっちの病院と連れ回すのも寿命を縮め兼ねません。日頃から本当に親身になってくれる主治医を見つけておきたいものです。